”ペット”をモチーフにした創作メモ
ボクの飼っているマロンの左目の曇りを見つけたのは、去年の夏だった。
マロンは、10歳を迎えるシニア犬のゴールデン・リトリーバーだ。
ゴールデン・リトリーバーの魅力のひとつは、その大きな瞳にある。
瞳の様々な表情変化を通して、マロンは、その感情を豊かに伝えてくれていた。
ボクは、その片目が失われたことに、少なからず落胆した。
その瞳の豊かな愛情表現にどれほどか癒やされ、大好きだったからだろう。
しかし、今、その左目は戻らない。
ただ、マロンは自分の左目が失われたことに落胆するでもなく、やや不自然に
変形した左右アンバランスな表情で、いつものように微笑みかけてくれる。
ボクは、彼に何か教えられたような気がした。
人は、なんでペットを飼うのだろう?
若い人が、自分でペットを飼う例は少ない。むしろ家でペットを飼っていて、というのが一般的だと思う。けれども、少なくとも大人がペットを飼うにのは、それぞれの理由があるように思う。
ペットなんて、暇か金のあるヤツが飼うんだろう。
ペットなんか飼うのは、さみしいね。
ペットにそんなに入れ込んで...
そんな台詞が聞こえたり、聞こえなかったりする。ボクは、こうした意見というか(偏見もあるようだが)、まったくもって同意はできないにせよ、否定するつもりもない。でも、やっぱり思う。ペットはボクの人生に欠かせない一部であり、それでもペットを飼っている方が幸せだと。一般的日本人は、ペットに対して、そう寛容ではないのだ。
犬を飼うこと、年末の大寒波の初日、雪中ダイブしたがるゴールデン・リトリーバー
ペット飼うことに厳しい意見を言う人は、たいがいペットと暮らしたことのない人のような気がしてならない。あるいはペットとは別の何かに癒やされているのかもしれない。そうでなければ、人生は多くの人にとって厳しすぎる、孤独すぎる、そして悲しすぎる。
ただ、大切なことは、深い孤独や悲しみ、あるいは喪失感は、程度の差こそあれ、誰でも生きていく中で感じるものだ。ペットを飼う者は、ペットとともにいることで癒やされる経験を知っているのだ。犬であれ、ネコであれ、そのほかの動物であれ、ペットと暮らすことは、人にとって、とても自然で、ときに必要な行為なのだ。その理由は、人それぞれであっても...
例えば、人は、失ってはじめて、失ったものの大切さを嘆き悲しむ。そして、あのとき、ああしておけば良かった、こうしておけばよかったと悲しむ。普段、人はこの自明な事実を忘れている。
そのことを一番強く思う経験は、大切な人との別離そして喪失、究極的には、大切な人を失うこと、すなわち”死”だ。
ペットを飼う人は、頻繁(10年に1回くらいの割合で)にそうした経験に直面する。つまり自分の愛犬なり、愛猫はほぼそれくらいの年回りで死ぬ。ああしてあげれば良かった、こうしておけば病気にはならなかったかもしれない、などと後悔する。いわゆるペット・ロスだ。
でも、犬やネコ自身はそんなこと思ってはいない。彼らは死を知らない。ただ飼い主の傍らで一緒に生きて、愛し愛されて、寿命が尽きる。そのときまで、その日を、その一年を懸命に生きている。そして何よりも飼い主に寄り添っていてくれる。宿命として、犬や猫の寿命は人間よりも短いだけなのだ。
だから愛するペットの死に直面した人は、死の意味を少し考える。愛することを思う。飼い主の人生が、前よりも少しだけ滋養に富んだものに変わる。平凡な一日一日をいとおしく感じる。なぜならば、死というのものは身近にあるにもかかわらず、そう人生に頻繁に経験できるものではない。とりわけ多くの場合、無条件に忌み嫌われるものだからだ。
ペットの死を経験すること、死は、決して不幸な人生ではない。むしろ人生の一部であり、生の裏側のような存在だと気づく。そんなことをペットの死は気づかせてくれる。
だから、精一杯、生きようと思う。泣いたり、笑ったり、愛して、怒って、笑って。そして食べて動く、働く。どう生きるのか、それは人それぞれであっても。
犬とその周りにいる人、家族、ペットと人との関係は、そんなそれぞれの物語だと思う。
なんでマロンの動画なんて撮るの?シニア犬のゴールデン・リトリーバー
そしてその物語は、その人とそのペットの数だけあったとしても、それぞれにたった一つの大切な物語だ。