マロン・ザ・ゴールデン

片目のシニア犬”マロン”と保護猫”タマ”の日常生活

NHK BS放送「ベイリーとゆいちゃんが教えてくれたこと」~犬と人の<特別な関係>について(後編)

NHKのBS放送「ベイリーとゆいちゃんが教えてくれたこと」という番組を観た。すごく好評を博しているようで、初回放送からこの2~3週間で、すでに再放送が2~3回されている。

f:id:tohma197:20181109140959j:plain

 ベイリーとゆいちゃん(NHK スペシャル)

kcmc.kanagawa-pho.jp

 

前回分をかいつまんで要約すると…


人と犬の特別な関係(前編)、癒やしをもたらすゴールデン・リトリーバー

 

放送では、犬と人との特別な関係、というのがメイン・テーマで、ゆいちゃんが、その最後の手術をベイリーといかに乗り越えたが描かれる。術後痛がって、まわりの大人が促しても、ゆいちゃんは、ベットから離れて、なかなか歩こうとしない。その彼女が、ベイリーとは歩くのだ。

 

実際、ペット先進国(イギリスやドイツなど)を中心に、病院や介護施設でセラピー犬の利用が広がっているという。犬が病気で入院している患者さんの元を訪れ、静かに撫でられたり、ハグしたり、時には遊んだりするのが、その任務なのだが、犬と触れあうだけで患者の心が癒やされ、リラックスし、病の苦痛が和らぎ、治療成績が上がるのだという。セラピー犬の養成プログラムもあり、ベイリーも仔犬時代にその訓練を受けている。

 

番組中、麻布大学の菊水武史教授が、「人と犬は見つめ合ったり、触れあったりすることで、脳内にオキシトシン(別名:幸せホルモン)というホルモンが分泌される」と話す。このホルモン分泌は、通常、家族などの親密な間柄で促され、異なった種である犬との間に生じるのは、きわめてまれな例なのだという。こうした特別の絆は、人間と犬との長い間の共生によって培われたものだという。

  

犬は、飼育するのに一般的には(ネコに比べても)、手がかかる。やれ、散歩だ、食事だ、遊びだ、トイレだなどといちいち手がかかる。ただ、そうした手間をかけること、そうした生活の一つひとつを通じて、自分の身体と心の健康が維持できる。

 

散歩一つとっても毎日、最低一回、約一時間程度は、マロンをつれて歩かなければならない。晴れの日ならいいが、雨の日も、雪の日も、嵐の日も、暑い日も、寒い日も、つまり、どんな日も、1年365日とは言わないまでも、ボクの場合、散歩だけでも300日以上は連れ出す。ただ散歩すると言っても、飽きるので、走ったり、自転車に乗ったり、山に登ったりするようになる。時には考え事をすることがあっても、結局、身体を動かしているのだ。仕事の関係で、散歩に連れ出せないときには、家族に手伝ってもらう。家族との間にも共通の話題や関係性ができ、マロンは家族との絆も強めてくれる。そうやって直接・間接的にマロンと触れあう。結果として1年ほとんど身体を動かしていることになる。

 


人と犬の特別な関係(後編)、癒やしをもたらすゴールデン・リトリーバー

 

確かに、日本は、この20年随分とペットに対する考え方が進歩した。とはいえ、まだペット先進国とは言えない、とボクは思う。ペットが社会や生活の中に完全に受け入れられているとはいえない。保健所で引き取り手のないペットが機械的に殺される。住環境の問題もあるし、関係者の努力にもかかわらず、社会システムの悲しい現実はなかなか改善しない。

 

ただペットに対する考え方は変えることができる。ペットを飼うことが贅沢と見なされたり、無駄であったり、逆に不潔だと思われたりする。こういう風潮は変えていかなければいけない。アメリカで生活している頃に、ボクはアニマル・シェルターでボランティアをしたことがある。動物病院と併設され、ボランティアが運営して、飼えなくなった人も気軽にペットを持ち運ぶ。週末は家族ずれが訪れて、気に入ったペットを受け入れる。こういう施設や考え方が一般的で、施設も随分賑わっていた。養育する際も、厳密な事前説明や審査がある。ボクも一度申請したが、運動量と育てるのが難しい犬種で審査が通らなかった。

 

前犬のラッキーは、そうして出会ったゴールデンだった。実は、すでにアメリカ人夫婦からビーグルの仔犬を個人的に譲り受ける話が決まっていたのだが、ラッキーに出会って一目で気に入り、彼が入所後三日でボクが里親になった。完璧に躾けられていたので、英語コマンドを学ぶために、いっしょにペットスクールに通ったくらいだ。アメリカでは、犬といるだけで気軽によく見ず知らずの人から話しかけらた。ペットと人間の距離感が全般的に日本よりも近いのだ。

 

そしてボクの場合、個人的に、どうして犬や猫などのペットが必要と考えているのか。

 

まず人間というのは、社会的な動物だ。とりわけ日本では、「いい大人の男が犬の世話になんかにかまけて」とか、「人間関係が希薄な人なんだ」と言葉や表情から、うかがい知れる人がいる。島国特有の同調圧力というヤツだ。 それでも、例えば、引きこもりなどと他の人にレッテルを貼るより、まず犬を飼えばいい。それだけで外出するし、ペットを通じて近所の人たちと交流できる。異質な者を排除しようとする同調圧力のガス抜きができるはずだ。

 

しかし、犬に対してだからこそ、「大人の男」でも、その鎧を脱ぎ捨てて本当に優しくできるのではないだろうか。人は人に対して、必ずしも正しく対応できるとは限らない。人間相手は、利害関係や、社会的立場など、いろいろな余分なものが関わるからだ。「寂しさ」というのは、人との関係が多けいほど、豊かであるとは限らない。むしろ、人は、誰彼問わずに安易に癒やしを求めることはできない。けれどもペットは、その垣根を容易に越えて、すべからく癒やしをもたらしてくれる。その意味で、やはり犬は人、とりわけボクとって欠かせない存在だと思うのだ。

 

マロンは、ボクにとって心の鏡のような存在だ。マロンの前では、自分の鎧や仮面を取り外すことができる。そうやってある意味、自分の姿を見直すことで、こころの状態を自然に取り戻すことができるからだ。

 

だから、ボクにとっては、マロンは生活、そして人生の一部である。そして彼との生活がボクの生活であり、自然の中で、生活リズムが一致し、そんな自然の生活が幸せで、健康的なのだ。何かの見返りを期待しているわけでもない。ただ一緒に自然を歩いて、撫でて、笑わされて、それだけでいい。そんな存在だ。

 

f:id:tohma197:20130525133624j:plain